- 旧石器時代、人類は洞穴で暮らしていました。
- 縄文前期、クニトコタチ(人の名前)が現れて、竪穴式住居と栗の栽培を奨励して、地域の生活を豊かにし、周りの人々に推されてリーダーとなりました。
- その後、クニトコタチは自らをアマカミ(天皇の前の名称)と称し、國をまとめるために“ト”(ヲシテ文字)の文字を象徴として用いました。

- 三種の神器 最初の神器の誕生です。
- 地域の人々からは感謝の気持ちの供物が届けられ、これを費(つい)えとし、さらに人々の暮らしを良くしていき、更なる感謝の供物が増えていきました。
- これが今でいう税金の始まりでした。納税は感謝の気持ちから起こりました。
- クニトコタチは八人の御子(みこ)を國中に遣(つか)わして、人々の暮らしを改善していき、それぞれに感謝の供物が届くようになりました。
- 縄文中期、気候変動による不作で、食糧難に見舞われました。納税は滞(とどこお)り、食糧を得るための暴動も起きてしまいました。
- この事態に六代アマカミのオモタルは、國の治安維持のために重大な決意をし、暴動を起こす者たちを一掃しました。
- “ト”だけでは國が治められなくなったのです。
- 混乱を治めたのち、今後のために剣(つるぎ)を追加し、二つ目の神器としました。
- 食糧難を解決したのが七代アマカミのイザナギ・イザナミでした。
- 大規模な水田開発に乗り出し、それまで陸穂(おかほ:畑で稲を育てる)が主の1,500の村がありましたが、新たに水田稲作を中心とした1,500の村を作り上げていきました。
- イザナギ・イザナミは國を支える水田稲作を確かなものにするために、“アワウタ”(注1)を用いて村々を巡行していきました。
- 八代アマカミのアマテルの世。豊かさと共に多くの問題点が浮き彫りになっていた時期。それぞれに的確な対策が求められていました。
- 太陰太陽暦の制定
- 四代アマカミのウビチニ・スビチニに始まったトツギ(結婚)ノミチをさらに進めた、現代にまでに残るイセノミチ(イエ制度)(注2)を制定
- 今でいう道州制導入
- 量刑法の制定
- 陸穂(おかほ)と水田稲作の収量差は大きく、ハタレの乱といわれる大きな暴動も起きています。
- タケミカヅチなどの働きにより鎮圧しましたが、人々の心の在り方の問題を解決するために
- “鏡”を追加し「八咫鏡(ヤタノカガミ)」と銘々しました。
- “ト”の文字を勾玉に置き換え「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマカリタマ)」とし
- “剣(つるぎ)”を「草薙剣(クサナギノツルギ)」と銘々し
- 三種の神器(ミクサノカミタカラ)としました。
- 十代アマカミのニニキネは食糧不足を解消するため、水田開拓を高地に求めざるをえなく、灌漑水田を考案導入し、水田稲作を確立させました。
- 現代でもその原型のままに行われています。
参考文献 『ホツマツタヱ』を読み解く 日本の古代文字が語る縄文時代 池田満著
- 注1 アワウタ

- 注3 イセノミチ(イエ制度)
- 四代アマカミのウビチニは國の運営の主力を稲作に据えました。そのために、これまでの群婚から一夫一婦制のトツギ(結婚)ノミチを定めました。
- 八代アマカミのアマテルは、先代アマカミのイザナギが國を再興させた水田稲作を継承し、夫婦制をさらに進めたイエ制度となるイセノミチを制定(イエの運営を円滑に持続していくことが全体の幸せ(国の繁栄)に繋がる)
- “長男が家を継ぐ”など、いまでも多くの風習が残っています。
ヒタカミ 記